コミック7.「風雲児たち 幕末編」第3巻 みなもと太郎 リイド社SPコミックス
ペリーの動向をメインに記録。(台詞とト書きの主立った部分を書き写しました。本当は、もっと長いですが・・・)
前年11月にノーフォーク港を出発したペリー一行は、12月には大西洋を横断し、マディラ諸島に到着。1853年1月10日にセントヘレナ島に着くやあくる日にはもうケープタウンに向けて、船出していたのである。
われわれ日本人はついペリーが太平洋を突っ切ってやってきたように思いがちだが、そうではない。
ペリーも、やや遅れてプチャーチンも、ほとんど同じ航路をたどり、寄港地(植民地)の多くあるアジア・アフリカ方向から日本を目指してきたのである。
ペリーの日誌で5月26日、ペリーはついに琉球王府那覇をターゲットにとらえた。
ペリー上陸地点、泊港。
「ここは礼を尽くし、堂々と開門。琉球王府として恥ずかしくない歓待をすべきである。薩摩在番が我々に任すと言った以上、彼らも驚くほどの立派な対応を見せてやるチャンスだ」板良敷雲上(いたらしきぺーちん)。
琉球側の出方によっては、武力制圧も考えていたペリーであったが、今は精一杯の礼儀ある対応を心に誓ったのである。
とはいえ琉球を日本進出の拠点とするペリーの方針は変わるはずもなく、ペリー日誌で6月9日、サスケハナとサラドガの2隻が、小笠原諸島へ旅立った。
ペリーが小笠原父島に着いてみると、そこにはイギリス艦隊が停泊しており、今まさに小笠原をイギリス領にしようとしているところであった・・・。
ペリーはイギリスと夜を徹して直談判におよんだのである・・。
こうしてイギリス艦隊が去り、ペリーたちはしばらく小笠原を調査してから琉球へ戻った。
琉球でペリーは、近くまで来ている別行動のアメリカ船数隻を待っていたとも言われている。
出来れば浦賀へ十隻前後の大艦隊で乗りつけ、より有利に事を運びたかったのだが・・・。
結局、ペリーは当初の計画どおり四隻で出発。
ペリー日誌で7月8日、日本歴で嘉永六年(癸丑)六月三日、ついに浦賀沖にペリー艦隊が姿を現したのである!!
「アイ キャン スピーク オーランド!!」私はオランダ語を話すことが出来る。これが記録に残る日本側の第一声である。
「貴艦の艦長にこの手紙をお渡しいただきたいっ」「本来なれば、長崎以外の地で手紙のやりとりは一切行っていないのだ」「この書状を渡すのは、貴艦隊に敬意を払っての特別のご処置であるぞっ」
与力中島三郎助と通詞堀達之助の二名が乗船したが・・・
「長崎へ回るつもりはまったくない。またあなたのような下級役人とは話はできない」
「この艦におられるのは、米国最高の司令長官、ペリー提督であられる。合衆国より全権をもって友好を結ぶためはるばる訪ねてこられたのだ」
「よって、日本側の最高権力者でなければペリー閣下はお会いしない」
「親書の受け取りをもし拒むのであれば、米国に対する侮辱、国際的信義への反逆とみなし、江戸へ砲撃を開始するッ その旨、貴国の高官に、即刻お伝え願いたいッ」
あくる日も、ペリーは艦長室にこもって姿を見せず、交渉はすべて副官に任せた。
「三日以内に正式の返答をいただきたい。日本高官がこられない場合、こちらから武力上陸しても将軍に親書を手渡すっ」
「あくまで長崎に向かう意志はないというのだな」
「その通り。提督はこの地以外の場所を望まない」
「ならば貴国の意思を尊重し、我が国の法律を曲げて、この地で受け取ろう」「ただし、その親書を受け取る高位の役人は、その方たちと一切口をきかないッ ペリーとやら申す提督に対してもだ!」
「一言でも言葉を交わせば、それは「会談」となる。会談を望むのなら、長崎の地へ行っていただきたい」
かくて日本暦で嘉永六年(癸丑)六月九日・・・西暦一八五三年7月14日 ペリー一行はついに念願の日本上陸を果たしたのである・・・。
上陸したアメリカ人の数は約三百・・日本側は少なくとも五千人以上であったとペリーは記している。
一種異様な無言の儀式は、約二十分で終了。日本側に手渡されたのは、フィルモア大統領よりの親書およびペリーの信任状。それらのオランダ語、中国語の翻訳文である。
ペリー自身が日本人の前に姿を見せたのはこの時がはじめてである。もちろん、目撃者は幕府の人間ばかりであって、一般人は誰ひとり見ていない。
「私は来年、改めてやってくる。そのとき、親書のご返事をいただきたい」
九日間の騒動は、こうしてひとまず終わった。
- 作者: みなもと太郎
- 出版社/メーカー: リイド社
- 発売日: 2003/05
- メディア: コミック
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