読書17.「一九八四年」 ジョージ・オーウェル ハヤカワ文庫
旧訳版を読みました。古本屋で安かったので、まあ、旧訳でも新訳でも中身は一緒だろう。と、軽く考えていたんだけれど、読んでみたら、とんでもなかった。出てくる単語や言葉が難しくて、さらに、それが漢字を多用した古い言葉遣いで書かれているから、読みづらくて、読みづらくて、きつい。
「しかしながら」という言葉を多用するのはいいが、それをわざわざ「然し乍ら」と書かれている。「ほとんど」ってひらがなで書けばいいのに、「殆ど」って書いてあるし、「あらかじめ」だって「予め」って書いてあるから、こちらの国語力を試されている感じだ。「就中」という言葉が出てきたときには、「なかんずく」ってちゃんと読めた自分をほめてほしかった。
たぶん、新訳版は、そういうのが全部修正されているんだと思うので、これから読む人には、そちらを勧めたい。間違っても、旧訳版に手を出すなと言いたい。
つまり、昔の本って、それだけ読みづらかったんだなあ。と思って、学生時代は、そういう本でも平気で読んでいたのに、いつの間にか、読めなくなっていたのは、何かの罠なんだろうか? 言葉を簡略化することによって、思考も簡略化され、考えなくなっていくという、この作品に書かれたテーマに、いつの間にか、我々の現実も脅かされているのだろうかと、考えてみたが、考えすぎかもしれない。